1、地震発生後の動き

 ①地震発生直後

 4月16日深夜1:26震度6強の揺れが南阿蘇村を襲った。当時南阿蘇ケアサービスには6カ所の建物に利用者総数55名、夜勤者5名宿直者2名がいた。何度も襲いくる激しい揺れに建物はミシミシと音を立て、職員や利用者から悲鳴があがる。身の危険を感じつつも、「大丈夫、大丈夫、落ち着いて行動しよう、まずは椅子を出して1人ずつ起こして建物の外へ避難しよう。」とグループホーム夜勤者に声をかけ、他部署の安否確認に走った。利用者にとって職員にとって安全な居場所はどこなのか、車へ避難できる利用者数は限られている。結果、GH、有料老人ホームはなしのぶの利用者は車中泊、サ高住結の家の利用者は有料老人ホームはなみずきへ避難した。(平屋で築年数の一番浅い建物がはなみずきである。)職員は車脇にポータブルトイレを置き真っ暗な中トイレ誘導を行った。冷えた夜だったため駐車場にてカセットコンロでお湯を湧かし、温かい飲み物を飲んで頂く。携帯電話はつながらない。全く情報が入らない中、職員は家族の安否も分からない中支え続けた。そして夜が明けた。夜明けまでたった4時間。とてもとても長い夜だった。

②被災3日間の動き

 (1)安否確認

 夜があけると不安な表情を抱えながら続々と職員が集まった、生きていたんだねと皆で抱き合う。当時73名いた職員のうち、初日に25名が駆けつけた。夜があけると同時に全利用者をはなみずきへ移動した。一晩中同じ体勢で足もパンパンにはれている。「早く横になってもらおう」18戸の居室に1人3名ずつ休んでもらうことにした。それぞれの建物から利用者の布団を運び出す。しかし18戸の建物に55名の利用者は困難を極めた。そこで徒歩2分にある南阿蘇村福祉センターに相談、11人の利用者は職員とともにそちらへ移動した。訪問介護サービス提供責任者はヘルパースタッフとともに独居の利用者宅をまわった。阿蘇大橋が崩壊したことで立野地区の利用者宅や道路が陥没している地区には訪問できなかった。避難できていない要介護高齢者を把握し、居宅介護支援事業所を訪ね状況報告。しかしケアマネも出勤できていない事業所も多く、在宅利用者の安全確保に困難を極めた。

(2)インフラ

 電気×…発電機確保に奔走

 ガス◯…プロパンガスだったため調理をする事は可能であった

 水道×…近所の湧水を汲みにでかけ、調理・トイレに使用した

(3)ボランティア要請

 16日LINE、タブレットのデザリング機能を用い全国に情報を発信した。そして、唯一つながったドコモの携帯で介護ボランティアとボランティアコーディネーターを要請した。トンネルと大橋が崩落し出勤できないことが想定され、細く長い支援が必要だと感じられたためだ。また、当事業所では東日本大震災時、4名のスタッフが岩手県沿岸部に支援に入った。その経験が今回の支援要請につながっている。

(4)求められる判断

 「この建物で大丈夫でしょうか?」「看取りのNさんエアマットと喀痰吸引が必要なんです、電気が必要なんです。どうしましょう。」「明日からのお薬がありません」…矢継ぎ早に混乱したスタッフが問うてくる。一つ一つの返答の責任の重みなど感じる余裕もなく「対処」していった。まるで野戦病院のような状況の中、衣食住の確保に奔走した。職員は家の片付けもそこそこに家族からの家にいてほしいの言葉を振り切り駆けつけてくれていた。全壊した職員や親戚をなくした職員もいた。私も含め職員は冷静さを欠いていたように思う。当たり前に出来ていたこと、配薬、排泄チェック、インスリン対応、お薬セット…「◯○さんのお薬ないよ、どこ!」「排便最終はいつ?下剤調整は?」基本的なことが出来ていない、いや出来ないのである。そこで「介護職のする事:食事、排泄、心のケア」「看護職のする事:薬、体調管理、処置」この言葉を広用紙にかき誰でも目につくところに掲示した。それ以外の事はせんでいい、この3つだけでいい!そう呼びかけた。また、GHの職員は有料老人ホームの利用者の名前と顔が一致しない。そこで各部署長に「名前、排泄方法、食事形態、その他(共通認識しておきたいこと)、リスク(認知症の状態など)」について各利用者別に簡単にまとめてもらった。利用者の胸には名前をはりつけた。この利用者状況まとめは常時更新し、後に、専門職支援者に配布し大変有効であった。

 職員は様々な思いを抱えながら出勤してくれた。73人の職員のうち、1/3の職員はトンネルや大橋を通勤ルートとしていたため、出勤できていなかった。絶対的に人が足りないのは明白だった。しかしシフトを作る中で3勤1休を徹底した。長期戦になるのは間違いなかったため、あえて休みを入れこんだ。休み明けのスタッフが「散らかしっぱなしの家の片付けが出来ました。心がすーっとなりました。また今日から頑張れます。」と笑顔で話しかけてくれた。私たちは介護職であると同時に、家を支える家族の一員なのである。無理をしすぎて体調を壊す訳にはいかない。職員にはこの災害環境下でも細く長く働いてほしいと願っていた。

 ③被災1ヶ月の動き

 19日夜には不安定ながらも電気と水道が復旧し、ライフラインは整った。20日には体調不良者をのぞく全利用者をシャワー浴する事が出来た。全国各地から支援物資が届き始め、私たちは大勢の方々から支えられているということを実感した。野菜、果物、オムツ類、衛生物品、経口補水液、口腔ケアセットなどが次から次に届き、本当にありがたかった。

 利用者は、はなみずき一カ所に集めた状態であったが、ライフラインが整い始めたと同時に順次各施設へ戻って頂いた。「やっぱり我が家が一番」と利用者のほっとした表情に、癒された。本震後、村内のデイサービスは5月にはいるまでどこも開所しておらず、在宅利用者の入浴が行えていなかったため、デイサービスの浴室を一般開放し無料入浴サービスを行い、地域の方々にも利用して頂いた。有資格者が入浴のお手伝いをするということで安心して入浴されたようだった。

 しかしながら、震災のストレスからくる利用者の体調不良者は続出した。食欲不振からの衰弱やストレスなどによって熱発や気分不良を訴えられる方、認知症症状が悪化された方も多かった。震災後3名の方が救急搬送される。すぐに戻ってこられたが、全体的なADLの低下や認知症の進行は否定できない。震災直後、利用者の方は1週間ほとんど身体を動かす機会がなかった。デイサービスに通ったり、体操やレクレーションをおこない、気分転換や身体をうごかす大切さを再認識した。

 

2、ボランティアの支援

 4月16日DMATとしてT-MAT2名に夜勤補助で入ってもらう。4月18日宮崎県高千穂から3名、4月19日京都からボランティアコーディネーター1名と岩手県からDCATが4名、熊本県菊池から2名到着した。その時点で全国から応援に行きたい旨の連絡が入る。(私はSOSを出せて色んな事業所から応援に駆けつけてくださる事が見えてきたけど、南阿蘇の他の施設は大丈夫なのだろうか)ボランティアコーディネーターが現地入りし、また、災害発生時に災害ボランティアセンターを立ち上げ運営支援をされている石井氏と繋がる事が出来た。そこから村内9カ所の事業所を支える仕組み「福祉救援ボランティアネットワーク」の立ち上げに繋がった。

 当法人で活動をしてくださったボランティアは大きく3つに分かれる。法人から派遣され活動されている団体ボランティアと、ボランティアネットワークの存在を知り参加された個人ボランティア及び災害ボランティアセンターを通して来られた一般ボランティアである。4月16日から7月16日迄のボランティア数は次の通りである。

ネットワークを経由して入られたボランティアは介護や看護の専門職であり主に以下の支援をしていただいた。

  1. 日勤・夜勤業務(福祉避難所利用者の見守り、介護、利用者見守り、介護)

  2. 環境整備(清掃、物資の管理)

  3. 感染症拡大防止(ノロ、インフルエンザ蔓延防止)

 活動に入られたその瞬間から、介護看護のプロとして活動してもらい、利用者に笑顔で接してもらった。福祉避難所の重度の認知症高齢者をマンツーマン対応してくださり職員の疲弊を軽減することができた。ノロウィルスやインフルエンザなど感染症蔓延防止のために的確な指示を出してくださり、物資を提供、感染予防の環境整備をしてくださった。私たちが日常に戻れていない中、リスク管理に徹してくださったおかげで大きな感染症も発生する事なく、生活を営む事が出来た。トンネル崩落により通勤距離が伸び疲労が蓄積している職員に有給を付与できたのも専門職支援者がいてくださったからである。「利用者を人生の先輩として常に敬愛いたします」という理念のもと、のんびりゆっくりとしたケアを提供し、災害関連死を予防できたのも、南阿蘇ケアサービスを支えたいと送り出してくださった専門職支援者のご家族、職場の皆々様のお陰である。震災がなければ失わなかったはずなのに…と辛い涙を流す事が多々あるなか、震災があったから出会えたかけがえのない絆を今後も大切にしてきたいと感じている。本当にありがとうございました。

 

3、「福祉避難所」の設置

 ①設置のいきさつ

 南阿蘇ケアサービスでは定期巡回随対応型訪問介護看護を提供している。定期巡回職員が涙目で訴えてきた。「Fさん避難できていませんでした、連れてきてもいいですか?熊本市内にすむ家族やケアマネとは連絡つきません。」Fさんを家族の同意なしに連れてきていいものか、この施設が安全とも言えない、迎えにいく間にまた大きな余震が来たらどうしようか…「私が迎えに行きます。行かせてください。大丈夫です。」職員の覚悟に、よし、支えようと決めた。16日朝9時にはFさんが当施設に避難してこられた。その後、デイサービス利用者家族から体育館での避難生活は困難、避難させてほしいという要望が相次ぐ事になる。19日よりDCATで支援入されていた岩手県典人会の内出氏が「福祉避難所」について説明してくださった。21日役場に「南阿蘇ケアサービス福祉避難所」を申請した。役場も認可しその日には5名の要介護高齢者を受け入れた。福祉避難所を開設するにあたって、職員にはこう伝えた。「村には体育館で大変な生活をしている要介護高齢者が沢山いる。命の危険があると思う。村で困っているお年寄りを支えたい。」「人手不足は、全国から応援に来てくださる介護ボランティアの方と協力していこう、きっと全国から応援に来てくれるから、大丈夫、頑張ろう。期間は6月30日まで、職員さんに出来るだけ負担はかけないようにするから頑張ろう。」困っているお年寄りを放っておけなかった、その思いを職員さんは受け入れ過酷な状況の中協力してくれた。

 ②受入者

 南阿蘇ケアサービスにおける福祉避難所は、原則、「介護が必要な要介護高齢者」を受け入れ条件とした。自立・要支援者はなんとか生活が継続が出来るだろうと判断したためだ。福祉避難所受け入れ経緯としては、

  1. 在宅で訪問介護を利用している自力避難困難者:2名(4月16日17日)

  2. 体育館などに避難されている要介護高齢者:9名(4月21日〜23日)

  3. 避難先であった施設がデイ再開にむけて避難所を閉鎖したため:7名(5月5日〜)

の3つの流れであった。計18名の要介護高齢者を、職員と専門職支援者で支える事になった。

 ③環境づくり 

 応急的に寝泊まりする場所の空間作りをおこなった。空きスペースをつくり何人受け入れる事が出来るか建築設計図をもとに可視化した。たまたまニュースでみた段ボールベットをFB上で依頼発信、GH協会の迅速な対応ですぐに届いた。地元業者に依頼し、カーテンレールをとりつけ最低限のプライバシー確保を行った。

 ④運営

 18人の福祉避難所高齢者のうち10人が当社として初めて関わる人だった。十分なインテークもとれないまま受け入れるようなものであった。要介護高齢者の中には充分な食事が取れておらず衰弱され服薬管理がまともに出来ていない高齢者もいた。「普通」を知らないためのリスクがあった。段ボールベットから転落された方もいた。大事には至らなかったが自宅には手すりなどが設置してあったのだろう。当然のように、認知症の症状は進行しADLも低下する人が現れた。土砂崩れの危険地域に住んでいるということでケアマネから連れてこられた方は日を追うごとに表情が険しくなる。「家はなんともなかとに連れてこられた!」そこで週三回、日中自宅に滞在して頂く事にした。夕方には戻って頂き次第に表情も和らいだ。ただ目に見えて分かる職員の疲弊。そこで福祉避難所の方は専門職支援者に支えてもらう様仕組みをかえた。職員が責任は持つが徘徊のある認知症高齢者のマンツーマン対応などは、できるだけ専門職支援者に依頼した。疲労がたまってきていた職員の負担を減らす事も必要だった。

 ⑤福祉避難所閉鎖 

全壊で家に戻れない入所できる施設がない、低所得者の受け入れ先がなかなか見つからないなどの課題はあったが、18人中7名はご自宅に、2名は他施設入所、2名は別の福祉避難所へ移動、5名は当法人のGH定員超過で入所、2名は当法人のおとまりデイ利用となった。そして6月30日を無事に迎える事が出来た。

 福祉避難所という言葉さえも知らなかった私たちだが、こうして18名の要介護高齢者をこの過酷な時期に支え続け命を支える事が出来たのも職員と専門職支援者のお陰である。

 

4、南阿蘇ケアサービスが抱える課題

 被災3ヶ月、皆様の協力でなんとか過酷な状況を乗り越える事が出来た。南阿蘇村にある地域密着型施設として抱える課題を整理したい。

  • 大橋とトンネル崩落に伴う通勤困難者▶︎年内トンネル開通予定とのことであるが、開通できなかった場合の対策を考える必要がある

  • 立野病院や養護老人ホーム閉鎖に伴い南阿蘇村から緊急移送された方々や立野地区の要介護高齢者が戻ってこられない、戻る家や施設、病院がない▶︎行政とともに対策を考えていく

  • 救急指定病院である立野病院閉鎖に伴い救急搬送先が20分から45分かかってしまうため、介護看護のリスクヘッジの見極め▶︎専門職として早めの かかりつけ医受診や些細な変化も見逃さない体制

  • 職員慰労、職員モチベーションを維持向上する必要性がある(離職防止)▶︎大変な時期を乗り越えてきた職員のたくましさを認め感謝し次のステップに共に向かって行く

  • 「福祉救援ボランティアネットワーク」主催のネットワーク会議定期開催・情報共有の継続▶︎行政・社協・高齢者施設と連携を図り南阿蘇村の在宅高齢者の支え方の仕組みづくりを行う

  • パワーレス状態の南阿蘇村の高齢者の存在、生活不活発病者の存在▶地元の方々とともに︎地域支援・地域づくりに取りかかる

  • 次の被災地にむけて▶︎今回の経験を次の被災地支援にむけての一助となる様報告会や文書としてまとめていく、南阿蘇ケアサービス版DCAT組織化

 

 阿蘇の山々は地震と大雨の影響により至る所で土砂崩れが発生し赤茶けた土壌が姿をさらしている。見慣れた風景が変わったように、南阿蘇村の私たちの生活も一変した。まだ3ヶ月しかたっていないがもう3年ほど経過したような感覚に陥っている。私たちは阿蘇山の麓で、活火山としての厳しさと、心穏やかにさせてくれる風景、そこから感じ取れる沢山の愛情に包まれて生活していた。阿蘇の「蘇」は「よみがえる」と読む事が出来る。一度衰え弱まったものが再び盛んになる、という意がある。震災という試練も、私たち自身の「生」をより強固にさせるものである一つの試練にちがいない。阿蘇で生き老い最期を迎えるその瞬間までたくましく力強く生きていこうと感じている。それが支援してくださった皆々様への恩返しになると思っています。心から感謝申し上げます。

​*震災直後、南阿蘇ケアサービスにてボランティア活動をして頂いた方々に発送した報告書を添付しています。

                                     平成28年8月作成   文責:松尾

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